『福沢諭吉書簡集』第8巻月報,岩波書店(2002年6月)        【ホームペイジに戻る】


いつでもどこでも福沢諭吉―『民情一新』と「文明の利器」―
                                   杉山 伸也

 十年余まえに岩波書店から刊行された『日本経済史』第五巻に「情報革命」という一章を執筆していらい、『民情一新』(明治十二年)のモチーフになっている「利器」という言葉がたえず気にかかっていた。福沢諭吉の著作のなかで、技術のもつ歴史的普遍性や技術発展と社会との関係について正面から論じたものは多くないが、『書簡集』第二巻の解題によると、福沢はこの本の刊行をしきりに気にしていたという。『民情一新』の思想史的位置づけについては、松沢弘陽氏が「『民情一新』覚え書」(『福沢諭吉年鑑』二四号)でくわしく検討されているので、この小論では、『民情一新』の「利器」という言葉をてがかりに、福沢と現代社会についてかんがえてみたい。
 『民情一新』のなかで、福沢は十九世紀の「利器」として「蒸気船車、電信の発明と、郵便、印刷の工夫」とをあげ、「凡そ其実用の最も広くして、社会の全面に直接の影響を及ぼし、人類肉体の禍福のみならず、其内部の精神を動かして、智徳の有様をも一変したるもの」という評価をあたえている。しかし、実際には「印刷も蒸気機関を用ひ」、郵便の配達も「蒸気船車」により、また「電信も蒸気に依て実用を為す」ので、つきつめれば十九世紀は「蒸気の時代」「蒸気の文明」ということができるという。そして「よく之を利用する者は人を制し、然らざる者は人に制せられんのみ」、あるいは「此利器を用る者と用ひざる者とを比較すれば、其勢力権威に幾百倍の差違あるを知る可し」と主張し、「此利器を利用」する「進取の主義」と「保守の主義」とを対峙させて議論を展開している。のちに「交通・通信革命の時代」とよばれる十九世紀半ばのエネルギー革命と情報技術の革新による経済環境の転換の重要性とその政治的・経済的・社会的影響について、これだけ的確に認識していた思想家は日本では福沢諭吉をおいてほかにはなかった。
 もっともこうした福沢の「利器」に対する高い評価は、さかのぼれば『西航記』(文久二年)で、福沢がしばしば「テレガラーフ局」をおとずれ、「伝信」に多大な関心をよせていたことからも推察される。『西洋事情』初編(慶応二年)の口絵には、中央部に北半球を中心に電信でむすばれた世界地図がえがかれ、その上部には「蒸汽済人電気伝信」と印刷されている(松沢氏のご教示によれば、「蒸汽人を済(たす)け、電気信(たより)を伝う」と読むのではないかということである)。初編で政治・経済関係の多くの項目がとりあげられているなかで、「蒸汽」と「電気」(電信)がえらばれた理由は明示的ではないが、『西洋事情』外編(慶応四年)でもワットやスティーブンソンの略伝にふれられているので、とくに蒸気機関の歴史的意義については、福沢のなかでかなりはやい時期から明確になっていたとおもわれる。ちなみにこの口絵の世界地図には、日本はあるが、イギリスはかかれていない。
 こうした「利器」についての福沢の考察は、しだいに理論的にも精緻化されて『民情一新』にひきつがれていくが、『西洋事情』から『民情一新』にいたる明治初期のほぼ十年余のあいだに、福沢の考察に大きな変化があったこともたしかである。この時期の日本は、郵便・電信による全国的な情報ネットワークが急速に形成され、自由民権運動の高揚ともあいまってメディアに対する関心も急速に高まっていった。こうした明治社会の急速な環境の変化が、世情に敏感な福沢に影響をおよぼさなかったはずがない。『西洋事情』の一部が明治日本の現実になりつつある急速な変化のなかで、『民情一新』では、十九世紀の「発明工夫」を象徴する表現としてはじめて「利器」という言葉がつかわれるようになる。それだけではなく、『西洋事情』の「蒸汽」と「電気」のほかに、あらたに「郵便」と「印刷」が登場する。これは、あたらしい情報ツールの活用がまさに福沢のこうした時代認識に根ざしていたことをしめしている。福沢によれば、「印刷と郵便」とは「人の聞見を博くするが為に、最も有力にして、其働の最も広大なるもの」であり、雑誌・新聞・郵便書翰は「人の聞見を交易するの具」であった。福沢は、明治社会における「情報」の革新性と重要性をいちはやく認識し、こうした「具」を積極的に利用しようとした。慶應義塾の出版事業や『民間雑誌』の創刊、『時事新報』の発刊などまさにその実践であったといえる。
 「印刷と郵便」に関連して、福沢は「インフヲルメーション」という英語に言及している。福沢は、「語に云く、智極て勇生ずと。・・・智とは必ずしも事物の理を考へて工夫するの義のみに非ず、聞見を博くして事物の有様を知ると云ふ意味にも取る可し。即ち英語にて云へばインフヲルメーションの義に解して可ならん」とのべ、「智」を「インフヲルメーション」に対応させている。ここで「インフヲルメーション」を現代的な「情報」という意味におきかえてもなんら違和感を生じさせない。「情報」の語源については小野厚夫氏の研究にくわしい(神戸大学教養部『論集』四七巻、および神戸大学『国際文化学研究』創刊号)が、明治初期に刊行されていた『英和字彙』新版(明治六年、日就社)やヘボン編訳『和英語林集成』(明治五年)をみると、「information」には「消息(オトヅレ)、教諭(オシヘ)、報告(シラセ)」などの訳語があてられている。『西洋事情』初編の「新聞紙」の項目では、「凡そ海内古今の書多しと雖ども、聞見を博くし、事情を明にし、世に処するの道を研究するには、新聞紙を読むに若くものなし」と内容的にほぼおなじ記述がみられることからすると、福沢は「インフヲルメーション」を当時のニュアンスとしてはむしろ新聞を意味する「インテリジェンス」にちかい意味でつかっていたようにおもわれる。他方、「智」について、『文明論之概略』第六章(明治八年)で、福沢は「事物を考へ、事物を解し、事物を合点する働なり」として英語の「インテレクト」に相応するとしている。福沢の理解に変化が生じたとかんがえることもできるが、『民情一新』の「インフヲルメーション」をそのまま現代的な意味の「情報」におきかえて理解することには再検討の余地があるようにおもえる。
 『民情一新』で明確にされた福沢の「利器」に対する評価は、翌年刊行された『民間経済録』二編の第四章「運輸交通の事」では、経済的な視点から道路・汽船・鉄道・郵便・電信の「公利」についてふれられ、とくに鉄道による地域的経済格差の是正や鉄道の軍事的重要性などいっそう具体的に議論されている。さらに一八八三(明治一六)年になると、「利器」はもう一段進化をとげて「文明の利器」となり、「外交論」(『時事新報』)では、「蒸気電信これを名けて文明の利器と云ふ」、あるいは「文明の利器たる蒸気電信」など「文明の利器」というタームが多用されるようになる。
 こうした「文明の利器」のなかで、福沢の関心が、「技術」そのものではなく、通信技術の発展にともなうツールとしてのメディアや情報の重要性にあったことは容易に想像がつく。十九世紀の「情報革命」が「産業革命」とむすびついて経済システムを大きく変貌させたことに比較すると、たとえ情報ツールとしての利便性がましたとしても、現代のIT(情報技術)に「経済革命」につながるだけの推進力があるとはおもえないが、「蒸気電信は、人を貧にし、人を富まし、人を智にし、人を愚にし、甚しきは人を生かし、人を殺し、国を興し、国を滅すことあり」、「結局、我社会は今後この利器と共に尚動て進むものと知る可し」という『民情一新』の指摘は、「蒸気電信」や「利器」を現代のITやインターネットにおきかえても十分に通用する。
 福沢は「学者論客の思想論説は、地に産する物品の如く、蒸気電信等の利器は、之を運送する舟車の如し。・・・学者の新説も、伝達の利器を得ざれば、広く人心を鼓舞するに足らざるなり」(『民情一新』)とのべているが、逆にまた「伝達の利器」はあっても「運送」すべき充実したコンテンツ(中身)がなければ「利器」の意味もうすれてしまう。福沢がいまの時代にいきていたら、おそらくみずからパソコンの前にすわってキーボードをうち、日夜、自分のホームペイジを更新し、インターネットを通じて日本や世界に発信しつづけているにちがいない。
 福沢のように政治・経済・社会など多様なトピックについて膨大な著作をのこした思想家こそ、従来のアナログ的な研究だけで解明するにはおのずから限界がある。こうした状況をもっともはがゆくおもっているのが福沢だといってもいいすぎではないだろう。われわれが一歩福沢にちかづき、福沢が一歩われわれにちかづくためには、全著作のデジタル化はいうまでもなく、福沢が呼吸していた明治期の関連情報もふくめた体系的なデータベースの構築が必要となろう。福沢をデジタルの世界にときはなち、十九世紀に福沢がきりひらいた世界を自由にかけめぐることによって、われわれはいままで知られていなかった福沢の世界をさらに深くほりさげ、現代社会に対する歴史的洞察をいっそう深化させることが可能になる。
 「いつでもどこでも福沢諭吉」、こうした未来にむけたユビキタスな知的環境の創造こそ、もっとも福沢がのぞんでいることではないだろうか。
                              (すぎやま しんや・慶應義塾大学経済学部教授)